江戸時代末期
江戸時代末期
発展する経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも「太平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。
加えて18世紀後半の近代産業革命とその果実を得た西洋諸国は急速に「近代化」し、それぞれの政治経済的事情から前時代の「冒険」ではなく、みずからの産業のために資源と市場を求めて世界各地に「進出」をはじめた。遠い極東の地に彼らが到達するに従い、当然日本近海にも西洋船が出没する回数が多くなっていったが幕府はこれら外国船や日本との外交ルートを模索する使節の接触に対し、外国船打払令として知られる拒絶政策により「鎖国政策」を再確認しており、在野の世論もこれに同意していた。
しかし1853年、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に強行上陸したアメリカ合衆国のマシュー・ペリーとやむなく交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えをみせたペリー艦隊の威力に屈し日米和親条約を締結、その後米国の例にならって高圧的に接触してきた西欧諸国ともなし崩し的に同様の条約を締結、事実上「開国」してしまった。
下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説に反したとされた、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。世論が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、京都の天皇=帝(みかど)の存在が500年ぶりにクローズアップされる。 このため永い間、幕府の方針もあり政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となり、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。
一時は大老井伊直弼の強行弾圧路線(安政の大獄)もあり不満「世論」も沈静化するかに思われたが、桜田門外の変後、将軍後継問題で幕府がゆれる間に事態は急速に変化する。
薩摩藩では、島津斉彬が死んだ後、後を継いだ藩主島津忠義の父である島津久光が長州藩を牽制すべく公武合体運動を展開し、藩内の攘夷派を粛清(寺田屋事件)し、幕府に改革を要求した(文久の改革)。島津久光は江戸から薩摩への帰路、生麦事件を引き起こし、翌年薩英戦争で攘夷の無謀さを悟ることになる。
藩内改革派と保守派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、1863年5月、馬関海峡を航行中の外国船を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行した。また、京都における主導権争いから薩摩藩らと衝突、1863年8月、三条実美らの七卿落ち、翌1864年の池田屋事件を契機に薩摩藩・会津藩・桑名藩と武力衝突した(禁門の変)。
禁門の変を理由に幕府は、第一次長州征伐を決行、同時期に、英米仏蘭4ヶ国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された(四国艦隊下関砲撃事件)。その後、高杉晋作、木戸孝允らが藩政を掌握した。
このような情勢下、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は坂本竜馬、中岡慎太郎の周旋により、同盟を締結(薩長同盟)した。その後、幕府は第二次長州征伐を決行するが、高杉晋作の組織した奇兵隊などの庶民軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍徳川家茂が大坂城で病没するなどもあり、失敗してしまう。
折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威はこの敗北によって急速に無くなっていった。薩長は、土佐藩、肥前藩をも巻き込み、反政策キャンペーンであった「攘夷」を、折から巻き起こっていた国家元首問題としての尊王(勤皇)運動と融合させ、「尊皇攘夷運動」へと巧妙にすり替え、これを更に「倒幕」の世論へと誘導していく。
新将軍徳川慶喜は起死回生で大政奉還を実行する。武力によって完全に幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を失ったため先手を取られた形となったが、薩長倒幕派は太政官制度を復活させ、天皇を中心とした新政府を樹立し政権の交代を宣言する(王政復古の大号令)。当然慶喜、薩長は対立し、鳥羽・伏見の戦いを契機とした戊辰戦争で衝突、結果として薩長側の勝利に終わり、明治維新にいたることとなる。